研究会抄録

ウェブ鼎談シリーズ第(14回)「戦後の労働運動に学ぶ」

ウェブ鼎談シリーズ第(14回)「戦後の労働運動に学ぶ」

講師:仁田道夫氏、石原康則氏

場所:三菱電機労働組合応接室

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発言広場

【遅牛早牛】 時事雑考「当世言葉の重み事情2『日銀さん、お先に信用落としてます』政治の言葉」

(当初、一本(2万字)であげていたが、あまりにも長いので分割し、すこし加筆した後半部分である。あいかわらず、漢字とひらがなの比率に難儀している。今回のながれは、ややごういんな展開だと自覚しているが、言葉がかるくなると実態まで軽くなるようで、心配で筆をとってみた。しかし、あんがい実態がかるくなったので、言葉もかるくなったのかもしれない。ところで5パーセント賃上げ要求にはエールをおくりたいが、「遅くない?」早められないのかしら。みんな首をながくしてまっているから、急いでほしい。年があければ、年金生活者の怒りが爆発するから、春の地方選挙は雰囲気がかわると思われる。)

「闘争宣言」が懐かしい世代です

◇ 労働界には、「闘争宣言」文学があると筆者は考えている。ごくせまいジャンルなのだが、にがてで嫌であった。

 さて、「闘争宣言」というのは鼓舞の文学であるが、どうじに安定剤としてはたらく。たとえば「総力を結集して断固闘う」とか「要求満額をめざし最後まで闘う」といった、いわゆる定型文があって、何回も聞くとなんとなく心地よくなってくる。それが、最後までたたかうと宣言した翌週には、だいだい妥結するわけで、「最後まで」の最後とは解決までということなので、妥結とはすなわち解決なのであるから、最後までたたかったことになる。ごまかしではなく、そういうことなのである。

 では「総力を結集しているのか」ときかれれば、「総力を結集しなければいい回答はえられない」ということであるから、いつも総力を結集している(はずな)のである。また「総力を結集していない」と立証することはほぼ不可能であろう。もともと、総力とか結集といった言葉は、筆者の語感でいえば紙風船のようなもので、普段は折りたたまれて引きだしにはいっている。出番がくればふくらませるが、中はからである。しかし、そうであるからといって不要なものではない。大衆参加型の運動においては、節目をしめくくるイベントとしての全員集会、そして節目であることをあらわす「印」がひつようで、その「印」が「闘争宣言」なのである。

 で、まず大げさでそらぞらしい。そして、心にもないことを作文するわけにはいかないので、その気にならなければ書けない。また、文案をひねっているうちに、書いた文章に触発されて、さらにその気になって自分で盛りあがっていくのであるが、そこが嫌であった。べつに憑きものという状態ではなかったが、芝居とおなじように「自己励起」していくのであろう。

 ベテラン組合員は「闘争宣言」を、そろそろ終わりだなとうけとめ、新人はいよいよ始まるのかととらえるのである。かつて、「闘争宣言」が数次にわたった時代があったが、毎年とりくむ交渉で、毎年爆発していたのでは労使ともにもたない。ということで妥協をルーチン化せざるをえないのである。

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