研究会抄録

「政治と労働の接点-これからの政治参加の傾向と対策-」
講師:岡崎敏弘様、難波奨二様、オブ参加者様
場所:メロンディアあざみ野(横浜市青葉区)2025年10月17日14時から
発言広場
【遅牛早牛】 時事寸評「2026年5月の政局-行先不明のトランプ外交と宿題山積の高市内政-②」
まえがき
[ 今回は、前回の2026年5月4日のつづきなので、まえがきは無しと考えていたが、せっかくの余白なので書いた。
そこで気になっているのは、政府による「防衛装備移転三原則」およびその運用指針の改定を契機に、久しぶりに「死の商人」という言葉を目にした。もちろん、改定を強く非難する文脈での使用であった。また、改定は殺傷能力のある装備も含むということで、それが刺激となって「死の商人」という表現にいたったのであろう。
用語は表現者の手の内にあるもので、文脈ではなくその言葉尻だけをとらえて批評することもないと思っている。ただし今回のケースをいえば「死の商人」という言葉の用い方に無理がある、あるいは何でもかんでも「死の商人」でまとめてしまえばいいといった表現者としての安直さを感じる。言葉のもつマイナスの影響を考えれば、やはり原義に近いところで収めるべきであろう。
たとえば2022年からのウクライナの実情を思えば、武器をおくって欲しいというゼレンスキー氏の要請にどう応じるかは、それぞれの国の主権の範囲なので、これも部外国がとやかくいうことはない。というベースラインを引いたとしても現実にはロシアとの関係に配慮せざるを得ない。そこで、いわゆる第三国を経由する形で、遠慮がちに武器の供与に応じた国も表にでないが少なくないと思われる。
つまり、玉突き方式とか相互融通あるいは間接購入という形で米国やEUのみならず少なくない国々からの武器等の供与が、現実にウクライナの対ロシア戦線を支えているのは事実であり、さまざまな事情をのりこえる工夫の結果ともいえる。
そこで、調達に介在した国や人びとを「死の商人」と呼びますか。という疑問がまず浮かぶ。これらは、商人という立場では背負いきれないほどの重荷を背負った上での国境線を跨ぐ武器のやり取りなのであるから、それらの行為は外交や国内政治にも影響するほどの大事といえる。そういった重責に比べれば「死の商人」という言葉は、語感的にはおぞましくはあるが、内容的には軽い、軽すぎるのである。
いいかえれば、現状は主権国家間の関係において国益としての利害得失あるいは対立あるいは協力関係などを踏まえながら、大量の武器弾薬をはじめさまざまな物資が行きかっているのである。
正直なところ「死の商人」という言葉が入り込むすき間などない、ほとんどが国家行為ではないかと思うぐらいの支援体制と思われる。
また、国名は伏せるが暴落したロシア産原油の買取りやドローン機材の提供、通信システムの利用許可や位置情報の提供など、数え上げられないほどの取引や利益供与が交錯しているということで、これらのことが民間人あるいは民間企業の独断と責任でなしえるとはとうてい思えない。名義はともかく実質的には国レベルの介入と保護がなければ不可能なことではないか。
ということで、「死の商人」という表現の中には、わが身を安全なところに置き、利益をむさぼるというニュアンスがあるが、現実はそんなに甘いものではない。どんなにカムフラージュをしてみても社会的な非難からは逃れられないのである。また、テロの標的にされただけで、企業には有形無形の損失が生じるのである。
したがって「死の商人」とはいっても現代においては架空のものであり、あくまでも政治的なレッテル貼りといえる。現実はほとんどの企業にとってはそんな死神の横に座るようなイメージは極力避けるべきもので、企業の持続性や企業価値を考えれば「まっぴらごめん」というのが本音であろう。
また、国内に配備する防衛装備については殺傷能力の有無の議論はとても薄いのに、輸出品だからといってその殺傷能力をことさら問題視するというのは珍しい議論といえる。自分たちの心象とか判断を相手に押しつけるように、日本製の殺傷兵器は使わないでというに等しい心的態度の意味するところはどういうことなのか。こういった輸出しちゃダメ論もガラパゴス的平和主義のようで、分かりにくいことは否めない。
さらに、戦地に散らばっている兵器などの残骸を調査すれば、部品や材料の生産地が多様であることがわかる。また出所不明な部品も多いことから、武器そのものがブラックボックスであり、運搬者も、ルートも、価格も、用途もブラックボックス化しているといえる。
現在、最も注目されているドローンそのものは直接的には殺傷能力を有していない。しかし、搭載する爆薬や制御装置によっては最強の殺傷兵器に化けるのである。ウクライナとロシアの前線では多種のドローンが主役になりつつある。だからといって飛行体としてのドローンを地球規模での禁輸品目として統制できるものではない。極論すれば、兵器の半分は防御用でもある。要するに、防衛装備の政府レベルの輸出規制だけで、戦域における被害をコントロールするのは残念ながら不可能なことといえる。
もっといえば、「防衛産業は怪しからん」という想いから出発し、何かと注文をつけている立場の出口が「死の商人」という表現なのであろうか。ここは防衛産業を一方的に非難することが妥当であるのか、あるいは世界の防衛産業への非難なのか、議論の余地があるといえる。
くわえて、殺傷能力も性能の一部であり、その能力を欠いたものは役には立たないと主張するのを否定するためには、倫理的な背景が必要だと思う。現実の問題として、役に立たないものを求める国はゼロと思われるので論争は生じないであろう。
あるいは、殺傷能力よりも探敵装置の性能のほうが軍事的にはより死活的である。そういう意味では装備全体のシステム性能が重要であり、各国が求めているのはそういうものであって、個々の装備の殺傷能力のあるなしを顕微鏡で覗くような議論はまあナンセンスといえる。
といっても、輸出品が実戦に供され「見かけ倒しだった」といわれるのか、「おかげで助かった」といわれるのかどちらにも微妙な感覚が残るであろう。
いずれにせよ公開された基準をもとに輸出されるべきものであるし、輸出先での扱いについても政府としてかかわるべきであろう。ベースは政府間のやり取りであるから、求められるがままに提供することはありえない。おそらく提供しない、できないケースの方が多くなると思われる。
むしろ必要な議論は、同盟国あるいは友好国からわが国の態度や行動がどう見えるかということであり、またどの国とどのような連携や協力をするのか、さらにそれぞれの切実な事情を理解しあい、協力の方途を具体的に模索することではないか。
現下の事情でいえば、米国のドンロー主義が多くの国の安全保障に負の影響を与えるであろう事への現実的な対応の模索であるから、問題に直面している国どうしが、安全保障上の課題を率直に話し合うことが重要である。そのような対話の結果として、効果的な相互連携が成立するという文脈で安全保障政策の議論をすすめるべきではなかろうか。ということで、同盟国(米国)や友好国による多面的な連携をベースにした安全保障の構築の時代に入ったということであろう。またそれは、防衛における単独主義の限界を直視して、翼を広げるように各国との連携を深化させることでしか、中ロ朝という歴史上最強の対抗勢力に対しては対応できないという深刻な事態を意味しているということであろう。
そういう総合的な安全保障の流れの極小部分を指し、一部からは「死の商人国家」との指摘もあるようだが、何かしら表現に溺れたように感じる。少なくとも国会での議論や外交の航跡を見るかぎり、そのような指摘は荒唐無稽なもののように思う。]


